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聖地とは、光と闇を照らしだす場でもある

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聖地とは、痛みを照らす場でもある

聖地を訪問したり、わたしのリトリートにご参加いただいた方々からこのような声が届くことがあります。

訪問後、

  • 人間関係のトラブルに巻き込まれた
  • あれこれモノが壊れた
  • 大切なモノがなくなった

などなど。

聖地とは、ただただ穏やかで優しいだけの場所ではありません。
むしろ、

  • 深層にある未解決の痛み
  • 怒りや悲しみ、傷心などネガティブな感情を体験した
  • トラウマが思い出された

     

    などなど

     

    魂の深層に光を当てる鏡のような場であるからこそ、心の状態を浮き彫りにする場所でもあります。

     

    なぜなら、
    聖地とは「魂の記憶が呼び覚まされる場」として形成されているからです。

    その地のエネルギーに触れたとき

    • 過去世の記憶
    • 祖先が持つ悲しみ
    • 封じ込めてきた感情


    深層で眠っていた「穢れ」が浮上し、それが現実の出来事として体験することがあります。
    ※スピリチュアルでいうブロック、心理学でいうビリーフを古神道では「穢れ」と表現します。
    (私はいかなる宗教や団体等には属しておりませんのであしからず。)

    つまり、そのネガティブな体験そのものが、
    「感情や痛み、それらの体験と正面から向き合うために招かれた」

    というのが、わたしがお返事させていただくときの答えです。

    それは、何のためか…。
    それは癒しのためではなく、「統合」のためです。

    統合とは、光だけではなく影も引き受けること

    魂の成長とは、ポジティブで美しい体験だけを集めることではありません。


    本当に深い変容は、


    「どうしてこんな目に遭わなければならなかったのか?」
    という問いに、自らの意識で意味を与え直すプロセスを通じて起こります。

    ゲーテはこう語っています。

    「影が濃いということは、それだけ光が近くにある証なのだ。」

    たとえば

    • 私は被害者としてここに来たのではなく、強さを取り戻すためにここに立たされたのかもしれない

    • 信じて裏切られた体験を通して、私は本物だけを見抜く真眼を持った

    • 愛と光だけではなく、闇と怒りと絶望すらも含んだ本当のわたしを、私はようやく認めることができた

     

    一見、ネガティブと思われる出来事は、意識の再創造というギフトであり、この創造こそが、魂の統合の始まりです。

    聖地訪問で得られるものとは

    イエス・キリストは荒野に導かれ、40日間の試練ののちに公の活動を始めました。
    つまり、荒れ地=聖地=内なる葛藤を超える場でもあるのです。

    そして自分自身もまた、人生の聖地に立ったとき
    その体験が、同じ痛みを抱える誰かの「希望の道しるべ」になる日が来るかもしれません。

    ネガティブな体験や出来事を経験したその場所が「聖地」と呼ばれるのだとしたら、
    そこに呼ばれた意味は、おそらくこのようなものかもしれません。

    • 魂がかつて封印していた記憶や傷に、
      今世で初めて「意識的に触れることができる強さが整った

    • そこに立ち、傷つき、それでもなお、
      真の光とは何かを知ろうとする「あなたの意志が目覚めた」

    • そして、あなたの体験が、
      同じ痛みを持つ誰かに言葉を届けるものへと変わる可能性があるということ

    それこそが、スピリチュアルな旅がもたらす本当の贈りものであり、
    自己の再統合と共鳴による癒し…なのかもしれません。

    まとめ

    「苦しみをくぐり抜けた魂ほど、美しく輝くものはない」
    ヘレン・ケラー

    あなたが感じた悲しみや怒り、苦しみなどネガティブと捉える体験
    それは決して、間違った旅の証ではありません。

    聖地とは、「神聖なものだけに出会う場所」ではなく、
    何が本当の自分にとって神聖なのか?を問い直す場なのだと、私は思います。

    そして、その問いを恐れずに見つめ続ける人こそが、
    この三次元世界における本当の光になっていくのだと、心から感じています。

    だからこそ、世界のさまざまな土地や人々、文化に触れることで、自分自身の魂に光が当たる
    聖地を訪問するとは、そんな体験なのかもしれません。

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